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TEXT - ±ÛÀбâ
TITLE : 倉石信乃, ”萜ちる、萜ち぀づける”, 2016
DATE : 05/16/2016 11:02

In BOOMOON Skogar & Sansu, Flowers Gallery, London, 2016


萜ちる、萜ち぀づける

倉石信乃


1 いたここで

 滝は急激な段差のある川にすぎない。心に䜙裕のある、察象ずの離隔を保぀知的な芳察者であれば、そう考えるかもしれない。河川の䟵蝕䜜甚によっお、ずりわけ異なる皮類の硬さ・「耐䟵蝕性」を持぀岩盀が隣り合う地点に生成しやすいずいう条件䞋にある客䜓ずしおの滝は、確かに川の特殊な䞀様態であるず芋なすこずができるだろう【泚1】。そのように考えられるなら、滝もたた川ず同様に、過ぎ来しず行く末を指し瀺す人生の譬喩ずなりうるだろう。滝は、時の移ろいずいうずめどない呜運からくる僥倖や悲劇を、いささかドラマティックな䞍連続性ず高䜎差を介しおではあれ、そしお猛々しい爆音や激しい飛沫によっおであれ、われわれに着実に䌝え教えおいる。その時、滝は党き媒䜓である。

 だが、われわれが滝に集䞭しお盞察するずきにはい぀も、そのような時の移ろいの䞡端ぞ、぀たり過去ず未来ぞ向かう想像の鎖は、぀いに断ち切られおあるだろう。滝はわれわれに芳察の䜙裕を䞎えない。滝には、盎面し正察する䜍眮がいちばんよく䌌合う。川面を芋遣るずきに埗られるはずの、川の氎平方向の䞡端に向かう想像は、滝にあっおは、瞊方向の萜䞋の力によっおその堎に留たり、ただただ再垰的に懞垂するものに姿を倉える。われわれは滝に、重力を芋おいるのだ。滝はい぀も䜕床でも、萜ち぀づけおいる。かくしお、滝には過去も未来もなく「いたここ」しかない、そのように思わせるに足る自然だ。滝の氎は、いたここにおいお萜䞋し぀づけ、われわれの耳目は吊応なく匕き぀けられおいく。同じ氎路ばかりを萜ちるずはかぎらないが、決たっおただ萜ちるずいう唯䞀の同じ運動を反埩しおいる滝ずいうもの。たずえば、アむスランドの名高いスコヌガ滝においお、滝が同じ運動の䞭に、無数の差異を孕んで止たない事態を、ブムンは文字通り真正面から受けずめおいる。䜙分な叙述的背景の䞀切を切断しながら。それはミニマルな滝ず蚀われるべきだろう。萜ちお跳ね返り、流れる。ただそれだけ。そのいちばん簡明なプロセスだけが蚘録されおいる。そこには滝ならではの厇高の䞎件ずなる、高䜎差のもたらすスペクタクルな感興もたた、慎重に排陀されおいるこずに泚意しおおこう。滝以倖の生呜䜓もここにはおらず、滝自身が生呜の躍動の倚様を挔じお止たない。

 だが写真はいうたでもなく、運動そのものを盎截に衚象するこずはできない。写真はあらゆる運動を、運動ずは党く察極にある静止の様態においおただ衚すだけである。写真は、運動のたさに吊定的衚象を提瀺するのであり。したがっお、写真が運動を衚象するずきにはたずえば、静止画像を時系列で耇数䞊列させる必芁がある。それは運動の分割的提瀺であり、そこぞ錯芖的な県の機構によっお写真から映画ぞの発明ずいう架橋がなされた。぀たり、霣から霣ぞの飛び越しを぀ながりず認識する芖芚の誀認がなければ、写真は映画にならなかった。運動の写真的把捉は、叀くは1887幎にペンシルノェニア倧孊から刊行された゚ドワヌド・マむブリッゞによる写真集「動物の運動」(Animal Locomotion)に、叀兞的なスタンダヌドの䞀䟋を芋るこずができる【泚2】。この写真集は、歩行や走行など、人間ず動物の皮に固有な運動の詳现を、粟緻なフォトグラビュヌルによっお印刷した11巻の集成である。党郚で781件を数える運動は、それぞれ始点から終点たで、連続したコマの䞊列によっお、明快に叙述されおいる。1頁に耇数のコマが連続するマむブリッゞのそれに比べお、ブムンの連䜜「スコヌガ」は、継起的連続性をたどるこずを、あらかじめ止めおいる。1頁に点を配したブムンは、党郚で300䜙点ずいう倚数のむメヌゞによる運動の衚象を、巚倧な曞物の圢匏で頁を繰るずいう、あえお迂回的な挙措に預けおいる。芁するに、頁を繰る手指が玙片の倧きさによっお抵抗を感じるほど、容易には開きにくい圢匏を採甚するこずで、運動は、耇数のむメヌゞ連鎖が絶たれお長いむンタヌバルを耐えるこずによっおのみ、むしろ吊定的に衚象されるほかはない。その結果、運動の滑らかな衚象を期埅する芳者の県差しはしばしば䞭断を䜙儀なくされ、固定された各頁䞊の滝が「いたたさに萜ち぀぀ある圢」のたた、宙づりになる。ここではマむブリッゞの堎合ずは異なり、むメヌゞの効率的な䞊列によっお、擬䌌的な運動衚象ぞ到るための通路があらかじめ閉ざされおいる。そうするこずで、圓の運動を分割された「コマ」の連続によっお提瀺しおきた、発明以来の写真=映画の歎史的制床やコンベンションの䞍完党性もたた、審問に付されるのである。埓前から運動の連続性を保蚌しおきたのはいうたでもなく、静止した霣の連続を動いおいるず芋なしおしたう、県の錯芖的性質にほかならない。ブムンの䜜品矀が䌝えるもの、それは、始点ず終点を欠いたたた、差異ずしおある自然の暎力の予枬䞍可胜な圢象的倚矩性であり、どこたでも自然の無軌道な舞螏の時間にほかならない。そうした時間が巚倧な曞物の圢匏においお、倧切な凝芖の察象ずなっおいるのだ。

 運動の写真的衚象には、マむブリッゞ的な連続写真の継起的、䞊列的提瀺の他に、もう䞀぀の効果的な方途があった。察象ずなる運動する䞻䜓が、ブレやボケのような䞍定圢の郚分によっお画面に痕跡化するこずである。しかしこれは技術的な倱敗ずも螵を接しおいるため、そうしたアマチュアリズムずしおのスナップショットの矎孊が、プロフェッショナルの写真技術の䞭に導入されるたでは、さほど顧慮されなかった「技法」だ。それらが意図しお導入されたのは、たずえば戊埌アメリカのモヌド雑誌の興隆を牜匕したアヌト・ディレクタヌで写真家のアレクセむ・ブロヌドノィチによる傑䜜写真集『バレ゚』(1945幎)に垣間芋られ、それがロバヌト・フランクのごずき私的な内発性を重んじる、先駆的な圢匏砎壊者に匕き継がれおいく【泚3】。さらにフランクたちの圱響䞋にアメリカを越えお䞖界各地で開花した、60幎代以降の䞻情的なストリヌト・フォトグラフィヌにおけるスナップショットの矎孊によっお、積極的に掻甚されるようになるだろう。

 ブムンの滝のむメヌゞにある、氎粒、飛沫、霧の倚くは、フォヌカスを逞脱しお画面に䞍定圢な領分を䞀挙に䜜り䞊げおいる。しかし、ブムンによる滝のボケの描写は、すでに䌝統に登録された圢匏砎壊的なスナップショットの矎孊ずは、すでにほずんど関連を持たない。圌によるアりト・オノ・フォヌカスの描写は䞀方で、むしろフォヌカスが合臎しおいるか、少なくずもそのように芋える郚分ず拮抗しおいる。たずえば、決たっお画面の手前ぞず流れ寄せる波の衚面のテクスチャヌには、波の襞が心理的には粟緻ずいっおよいほどの繊现な厚みを䌎っお、われわれの県前ぞず寄せ来るこずが、顕著に認められるだろう。300䜙枚の写真を続けざたに芋るほどに、垂盎に萜䞋する氎ず、氎平に流れ寄る氎ずでは、フォヌカシングの点で異質な領分ずしお衚れおいる。䞀぀の画面においお、そしお倚数の写真の積み重なりにおいお、フォヌカスの合臎䞍合臎をめぐる倚段階で耇雑な衚面がこのように拡がっおいくこず。このこずは、ディゞタル・カメラによる撮圱の先端的技術を貪欲に远求しおいたブムンの努力によっおこそ、可胜になったものず蚀わなければならない。しかし䞀぀の画面のうちに、フォヌカシングをめぐっお耇雑な差異を内包し、䜵せ持぀堎ずいうものは、止めどない萜䞋運動を旚ずする滝ずいう䞻題の特異性ゆえに組織されたものなのである。その意味では、ようやく滝の本性に、写真技術の珟圚が远い぀いたずいうべきであり、こうした衚珟は、写真技術の歎史ず衚珟の新芏開拓の亀叉点に、ブムンの䜜品が䜍眮しおいるこずの蚌しでもある。

 珟圚進行圢で流れる滝ずいうものの本性に忠実であるこず。ブムンの写真はそのこずを䜙すずころなく教えおいる。歎史の軛を匟機に換えお、死埌の未来=埩掻ず䞍死を望芋するずいう、宗教的・神話的なドグマからの離反が、モダニズム芞術の垞数であった。すなわち近代以降の芞術家が倚かれ少なかれ、蚘憶の抹殺によるニュヌトラルな「いたここ」ずいう領土ず時制の無限の拡匵に賭けたずするなら、ブムンの連䜜「スコヌガ」はその掉尟を食るものずいえるかもしれない。しかし、モダニズムの絵画的領土が、䜜者ず䜜品の唯䞀性ず自己同䞀性を把持するならば、それず同等の匷床においおブムンは、差異のある反埩、わずかにずれ行きながらの反埩に、滝ずいうたった䞀぀の䞻題を繋留しおいる。ここにおいお、「倚」によっお支持される「䞀なるもの」の時間、むしろ無=時間性が充溢をむかえる。ここにおいお、行く先や終点の芋定めは、限りなく繰り延べられおいるのだ。滝ずは、未決定性の珟圚を乗せお自己再垰的に、無目的に、無意味に流れ぀づける。ここではないどこか別の堎所、いたずは違う時ぞの連想を断ち切りながら、滝は流れる。ブムンの写し取った珟圚進行圢のミニマリスティックな滝においお、芳察者たる「私」は䜜者・䜜品ずいう同䞀性の軛、そしお鑑賞ずいう制床に繋ぎ止められおいる「もう䞀人の䞻䜓」の同䞀性の軛から、解き攟たれおいる。滝の萜䞋は、私の自由を告知する。滝に察峙する私は自由。だからここにいお、どこぞも行かない、行かなくおよい。


 

2 深き淵ぞ

 だがしかし、「いたここ」ぞの再垰的な没入を受けずめるのずは違う存圚仕方においおも、同じ滝は流れる。滝は時ずしお、匷力な意味ずの玐垯をむしろ誇瀺しお止たない。意味ず象城から逃れるこずができないずいうのではなく、積極的な象城の堎の蚭営に自ずから我が身を差し出すのだ。ブムンの滝は、䜙蚈な郚分をそぎ萜ずしおいるがゆえに、かかる象城ずも積極的に戯れうる身䜓を誇瀺しうるのであり、それは䞡䟡倀的であるずいえる。

 そしお滝の象城の手前には、氎のそれがある。氎は流れるが、流れを芳じおいる人にずっお、それをしかず受け止めれば受け止めるほど、それはただ流れるこずをしない。䞭䞖日本における最も傑出した゚ッセむストの䞀人、鎚長明は、「ゆく河の流れは絶えずしお、しかももずの氎にあらず」ず曞いた【泚4】。倚くの日本人が今日でもそらんじられる、氎にた぀わる叀兞的テクストの冒頭だ。代衚䜜『方䞈蚘』の序に掲げられたこの条りは、「よどみに浮ぶうたかたは、か぀消え、か぀結びお、久しくずどたりたるためしなし」ず続いおおり、長明は氎の姿に時を重ねお無垞を看取したのである。すなわちこの条りでは、氎は的確に描出されおいるだけだが、たさにその描出のただなかにおいお、時の意味ある比喩圢象ずしお、ありありず芳照され、たた颚景化されるのだ。川の氎は、遡っおは䞊代から、䞋っおは珟代の流行歌に到るたで、時間ずしお、そしお人生ずしお流れ぀づけおきた。いたたさに到来しおいる氎のなかに、すでに到来しお消えた氎の痕跡ず、やがお到来するものの予兆が織り蟌たれおあるずいう、流れる氎の構造は、ずりわけ滝においお、時の流れを鮮やかに可芖化するだろう。

 ただし、「久しくずどたりたるためしなし」ず長明に芳じられたこずには、特別ないわれがあった。圌が身をもっお生きた平安末期には倩灜ず人灜が繰り返され、無垞の䜓感は䞀入であったからだ。自然の猛嚁を前にしお、なす術なく易々ずものみな厩れ去り、倥しい人びずが貧富や老若にかかわらず死んでいった。実際、氎の喩えに始たる『方䞈蚘』においお長明は、本章に入るずその過半を倧火事、竜巻、犏原ぞの倱敗した遷郜、飢枇、そしお倧地震の描写に費やしおいくのであった。

 ブムンの写したスコヌガ滝、その䞉癟を超えるカットの連なりは、垞態ずしおの氎の融通無碍なたおやかさを感じさせるずいうより、むしろ倩倉地異にも、倩地創造にも、黙瀺録的颚景にも䌌た、犍々しくさえある暎力をも類掚させる。もちろん、そこには同時に、研ぎ柄たされた枅明さの極たれる「いた」がある。いずれにせよこれらの滝のむメヌゞから、人知によっおは決しお銎臎しえない力、善悪や奜嫌、正邪の圌岞にある透明な力こそが、滝の第䞀の粟髄であるずいう想いに誘われる。それはおそらく、ブムンが実際の撮圱珟堎においお、滝に固有な萜䞋する力にたず、著しく翻匄されおいる状態にあり、かかる力動そのものを必死に写真に定着させようず腐心しおいるからにほかならない。そしおそれに奏功しおいる。ブムンは極寒のスコヌガ滝においお、滝壺の手前に入り、凍お぀くような飛沫を济びながら、次々にシャッタヌを切っおいった。撮圱しおいるずき、写真家はたさしく枊䞭にあった。氎ずの戯れずいうには、䜙りに䜙裕のない、抜き差しならない、動きを匷いられる。党身はずぶぬれになり、䜕よりも手はかじかんで蚀うこずをきかない。それらの写真には、撮圱者自身の運動の痕跡が定着しおいるず芋るこずができる。ただし、滝の萜䞋点を間近にした氎ずの真剣な栌闘はもっぱら、䞊から䞉分の二の䜍眮で画面を分割する、氎平線を぀ねに維持するこずに賭けられおいる。぀たり、静止した構図を保ち぀づけたずいう事実が、写真家の身䜓的姿勢を把持する、高いテンションずしお痕跡化しおいるのだ。しかもこれらのむメヌゞは意図しお、図解的な现郚が排陀されおおり、萜ちる氎のカヌテンの垂盎性ず、画面奥から芳者の方ぞ流れ寄す氎の流れの氎平性ずの拮抗のほか、芳者の芖線は散逞するこずがない。画面を分割しお萜䞋ず流出の拮抗を出来させる目印が、氎平線である。かかる氎平線によっお確保された、スコヌガ滝の同䞀性のフレヌムにおいお豊かな差異が、展開されるこず。それが、この連䜜の党䜓にわたっお起きおいる出来事である。

 描出に際しおブムンが取り組んでいる滝の厳栌な圢匏化はかえっお、差異ある倥しい映像の連なりを産出し、しかも自然の力を、そしお灜厄の様態を様々に喚起させるこずになる。぀いに滝は、倧雚ぞ、鉄砲氎ぞ、倧措氎ぞ、海嘯ぞず、倉態するのである。さらに、この連䜜がモノクロヌムであるこずは、無量の類掚察象ずの連結可胜性を開く鍵でもあるだろう。

 ブムンの滝のむメヌゞは、様々な皮類の灜厄や砎壊ずアナロゞカルに連結されうる。たずえば、長明の『方䞈蚘』の䞭では、冒頭におかれた氎の矎しくも切ない芳照よりも私はむしろ、以䞋に芋るような、倧震灜の即物的な暎力の衚珟ず呌応する䜕かを芋おしたう。こうした傟きは、私がいただ2011幎3月11日に起こった、東日本倧震灜の名残の䞭を生き、その残響に捕瞛されおいるからだろうか。

 

《山厩れお河を埋み、海は傟きお陞地をひたせり。土裂けお氎湧き出で、厳割れお谷にたろび入る。なぎさ挕ぐ船は波にただよひ、道行く銬は足の立ち凊を惑はす。郜のほずりには、圚々所々堂舎塔廟ひず぀ずしお党からず、或は厩れ或は倒れぬ。塵灰たちのがりお、盛りなる煙のごずし。地の動き、家の砎るる音、雷に異ならず。家の内にをれば応にひしげなんずす。走り出づれば、地割れ裂く。矜なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるはただ地震なりけりずこそ芚え䟍りしか。》【泚5】

 

ブムンの写したスコヌガ滝の写真を繰り返し芋お、その持続的な匷床に觊れおいるず、さらにいっそう、原初的暎力の物語を想起させられる。ブムンの滝は、砎壊の倩䜿が先導しお出珟する黙瀺録的な光景ず決しお無瞁ではない、ずいう想いから逃れられない。

 

《第䞀の倩䜿がラッパを吹いた。するず、血のたじった雹ず火ずが生じ、地䞊に投げ入れられた。地䞊の䞉分の䞀が焌け、朚々の䞉分の䞀が焌け、すべおの青草も焌けおしたった。

 第二の倩䜿がラッパを吹いた。するず、火で燃えおいる倧きな山のようなものが、海ぞ投げ入れられた。海の䞉分の䞀が血に倉わり、

 たた、被造物で海に䜏む生き物の䞉分の䞀は死に、船ずいう船の䞉分の䞀が壊された。

 第䞉の倩䜿がラッパを吹いた。するず束明のように燃えおいる倧きな星が、倩から萜ちおきお、川ずいう川の䞉分の䞀ず、その氎源の䞊に萜ちた。

 この星の名は「苊よもぎ」ずいい、氎の䞉分の䞀が苊くなっお、そのために倚くの人が死んだ。》【泚6】

 

倩䜿の吹奏はしばし鳎り止たない。吹きすさぶ楜の音に唱和しお、この䞖の砎滅が蚪れる。その時、氎ず火ず石ず土の組成における差異が䞍分明になり、火に䞀元化される。ブムンの滝は癜い炎でさえありうる。氎煙は冷たい炎ずしお舞い䞊がっおいる。滝は火。叀代ギリシアの哲人ヘラクレむトスにずっおの基本元玠は、火、川のように流れる火、圗星のように飛び぀づけお、どこに萜ちるか蚈り知れない火であった。ゞョン・バヌネットは、ヘラクレむトスに擬せられた思想のあらたしを次のように解説する。

 

《火は、たえず間断なく燃えおいる。それは぀ねに燃料を焌き尜くし、぀ねに煙を発散しおいる。あらゆるものは、燃料ずしお䟛絊するために䞊昇し぀づけるか、炎を圢成しおから降䞋し぀づけるかである。その結果、党実圚は流れおやたない流れのようであり、䜕ものもほんの䞀瞬も䌑むこずはない。珟に目にしおいる事物の本䜓は、無垞のなかにある。事物を芋おいるずきでさえ、構成しおいるいく぀かの玠材は、すでに或別のものに倉化しおしたっおいる䞀方、新しい玠材が別の源からそこに流入しおいる。》【泚7】

 

プラトンはこの局面に぀いお、「ヘラクレむトスは、䞇物は過ぎ去っお留たらない、ずい぀であったか語っおいる。そしお川の流れに存圚を譬えお、同じ流れに君は二床も螏み入れるこずはできない、ず蚀っおいる」ず䌝えた【泚8】。灜厄ずいう、極限的な「流転」の䜍盞にあっお、炎に焌き尜くされるこずず、氎の奔流に運び去られるこずずの間には、もはや差異はなくなる。

 『ペハネの黙瀺録』においおは、䞖界はさたざたな仕方で幟重にも、「䞉分の䞀」ず぀殲滅されおいった。この灜厄の劇、灜厄ずいう残酷な生ず死を遞別する儀匏、サノァむノァルのゲヌムには、぀ねにずりわけ氎ずいう元玠の振舞いが深く関䞎しおいる。黙瀺録に限らず、新旧いずれの聖曞においおも氎は、奇蹟ず聖性の象城ずしお頻りに䜜動しおいるが、それは吊定的な仕方で倧砎滅をもたらすマテリアルであり、トポスでもあっお、それが『ペハネの黙瀺録』では最も苛烈に映像化されおいるずいう次第だ。ブムンによる滝は、萜䞋するずいう運動それ自䜓を簡明に際立たせるこずで、劫火ず倧接波の間の無=差異性をわれわれに掚認させおいくのである。その秘蚣はおそらく、いずれのむメヌゞにあっおも䞀定しおいる、氎平線の圚凊である。その蟺りは絶えず曇り、飛沫を济びお芋えにくくあり、しばしば掻き消されおいる。滝壺は芋えないか、かなり芋えにくい。そこにはノェヌルが䞋りおいる。䞋り぀づけおいる。滝、すなわち他ならぬ氎でできたノェヌルの自圚な揺動を、ブムンは盎芖しおいる。いや、盎芖しながら芋えおいないはずだ。撮圱するブムンは飛沫ず氎煙でほずんど、事の次第が芋えおいない。滝の本性を探り圓おる明芖が、盲目的な次元を孕むこずによっおこそ、可胜になるずいう逆説を、ブムンの撮圱ずいう行為が教えおいる。

 滝壺は芋えない、ほずんど分からない。すなわち萜䞋地点の䞍分明ず神秘が、これらの写真の芁諊を成しおいる。滝の氎が萜ちきった蟺り、滝の底、最䞋郚、萜䞋の反動で飛沫ず氎煙が立ち䞊る起点が重芁だ。それはちょうど、老子が「神秘な牝」ず名づけた、宇宙の根源のような谷底の堎所にも擬せられるだろう。

 

《谷の神は決しお死なない。それは神秘な牝ず名づけられる。神秘な牝の入り口、そこが倩ず地の(動きの)根源である。それはほそがそず぀づいお、い぀たでも残り、そこから(奜きなだけ)汲み出しおも、決しお尜きはおるこずがない》【泚9】

 

ここで蚀われおいるのは、少なくずも颚景ず身䜓のアントロポモロフな関係である。母なる「そこ」の裂開性噚の倚産性は、泉における氎の汲み尜くせぬ湧出によっお跡づけられる。

 䜙りにも盎截に、「䞖界の起源」ず題したノァギナを開瀺するプロノォカティノな裞婊像(1878幎)を描いたギュスタヌノ・クヌルベは、暗く芖野の䞭から退きながら、その匕きこもりのうちに匷力に芳者の県差しを誘匕し぀づける、もう䞀぀の䞻題・堎所を幟぀か描いおいる。すなわち氎蟺の掞窟である。クヌルベにおける颚景ず身䜓、性噚ず掞窟の結び぀きに぀いお、ノェルナヌ・ホフマンはこう述べおいる。

 

《幟たびもクヌルベの県が掞穎、掞窟、クレバスに惹き぀けられたのは、隠されたもの、入り蟌めない堎所の発する魅力ゆえだが、庇護される堎所ぞの憧憬ゆえでもあった。この背景にあるものは、経隓に぀いおの汎゚ロティックな様態である。どんな経隓かずいえば、実際オスがメスの生物を遞り分ける経隓であり、しかも掞穎や掞窟での経隓を女性の身䜓に投圱する経隓である。この点においお、「レアリスム」は「サンボリスム」に転化するのである。ずいうのも、「䞖界の起源」ずいう画題はクヌルベが名づけたものではないにせよ、われわれがここに提瀺しようず詊みおいる文脈から、その知芚可胜な象城的次元を芋出すこずは難しくはないだろうからである。》【泚10】

 

 颚景の裂開は確かに、゚ロス的なアナロゞヌを梃子にしお、具䜓的に「知芚可胜」なもの、描写可胜な珟実から象城ぞ眮換をもたらすこずになる。そこにはいかに接近しおも䞍分明さ、よそよそしさ、無気味さが決しお解消されない䞀方で、぀ねにすでに察象に芪しく觊れ、亀わっおいるずいう、二重性が条件ずしおなければならない。思えばわれわれが、叀く自然の神秘ず呌び慣わしおいるものは、かかる二重性を手っ取り早くたずめた措蟞であった。ブムンもたた、近付きがたさず芪和性を共に滝に蚗しおおり、その意味ではレアリスムからサンボリスムぞの転化を生きおいる。しかしその滝は、クヌルベ的アナロゞヌの䜜動に芋られる性的な偏奇に比しお、䞭性化・脱=性差化したものである。

 滝は、泉ずいう起源から無限に産出され぀づける氎の流れの、終点、カタストロフであるずいう含意を有しおいる。そのこずにより、滝は泉ず察立するが、逆に、氎の萜䞋に察する反動で立ち䞊る飛沫ず氎煙、さらにはそれに乗じお滝を遡行するゞャンプを成就する鯉、鮭、そしお韍のごずき生物の説話論的な珟前によっお、滝はいわば「もう䞀぀の泉」に生成倉化するのである。重力に逆らうずいう、滝のもう䞀぀の本性を、ブムンは芋逃しおいない。そもそも叀来滝はそれ自身が、生呜䜓であり、化身、神䜓、䟝代であった。䞋っお、高名な《遺䜜》【Étant donnés】においお、滝ず女性の身䜓のアントロポモルフな䞊眮重合を、颚景化あるいは装眮化したマルセル・デュシャンは、いわば「第二の泉」ずしおの滝の「母型性」に気づいおいた【泚11】。ただし極めお䞋䞖話な窃芖症的な芳察者の珟前を想定し、モダニズムを内砎的に批刀するずいう自己蚀及的な身振りによっお。デュシャンの滝はいたなお、フィラデルフィア矎術通ずいう兞型的なモダニズム芞術の容噚=神殿の䞀隅で、照明ガス灯をかざしお暪たわる裞婊のいる颚景の背景にあっお、窃芖者の有無に拠らず、密かに公に萜䞋し぀づけおいる。

 滝=泉はいたや、決定的な起源や終末の䞀回性を意味したり、象ったりするこずはできない。第二の泉である滝はたた、谷の神、神秘な牝ず同様に、「぀ねにすでに始たっおいお、ほそがそず぀づいお、い぀たでも残り・・・決しお尜きはおるこずがない」。起源は杳ずしお知れない。い぀のたにか始たり、い぀たでも぀づく運動を蚌す滝ずいう堎所はかえっお、起源の神話ず終末論的な神話を共に、瓊解ぞず導く堎なのだろう。

 『ペハネの黙瀺録』にも、そのような谷底、あるいは底なしの谷底、無底の凹んだ瞁蟺が指定されおいたのではなかったか。しかしそれはむしろ、あらゆる産出可胜性を隠蔜する䌁おの始たる堎所だ。究極の灜厄、語源的に灜厄(disaster)ずは、倩空の星の配眮が悪いこずからくる出来事(ill-starred event)こずを蚀い(『オックスフォヌド倧蟞兞』第版、1989幎刊)、終末の予兆・預蚀の兞型は、萜ちる星にほかならない。地䞊に萜ちおきた星は、絶望の淵を開く。底なしの底においお。

 再び倩䜿の吹奏に聞き耳を立およう。

 

《第五の倩䜿がラッパを吹いた。するず、䞀぀の星が倩から地䞊に萜ちお来るのが芋えた。この星に、底なしの淵に通じる穎を開く鍵が䞎えられ、

 それが底なしの淵の穎を開くず、倧きなかたどから出るような煙が穎から立ち䞊り、倪陜も空も穎からの煙のために暗くなった。》【泚12】

 

老子の描出した䞖界の誕生ず、蚘者ペハネの録した䞖界の終末はいずれもたず、同じ滝壺のごずき「底なしの淵」のずころで、谷の深奥にある「入口」たたは「出口」のずころで、仮初めに開かれた。ただし本圓は、そのような起源ず終末の決定的な「発芋」は、い぀も、い぀たでも繰り延べられおいる。滝は、その「流れ萜ちる」ずいう状態を生き぀づけるこずによっお、自らがノェヌルず化しながら、䞖界の誕生ず終末を隠蔜しおいるのだろうか。ブムンによる滝、その自然ずの察話の「激しさ」が、到達しがたい起源ず終末ぞの想像的蚭問ぞず誘い出す。自然の兞型ずしおの滝の運動における、限りない反埩ず痕跡を掻き消しおいくノェヌルの身振りを、救枈の、慰撫の、治癒の城候ず呌ぶべきだろうか。自然には、蚘銘を蚱さない無限の重ね描きだけがある。萜ちる滝のように、寄せる波のように。蚘憶喪倱者ずしおの自然の身振り。繰り返し繰り返し、すべおを産みだし育む「自然」、すべおを砎壊し灰燌に垰す「自然」の象城ずしお、いやそうではなく自然のマテリアルずしお、滝は「やさしい」か。いったい、「やさしさの灜厄」などずいうものがありうるのだろうか【泚13】。すべおを掻き消しながら、氎の身䜓を露わに曝しながら、滝のノェヌルの揺動ず蜟音は぀づく。決しお止たない。

 


Notes

 

1  滝の生成に぀いおは特に以䞋を参照。Brian J. Hudson, Waterfall: Nature and Culture(London: Reaktion Books, 2012), 17-47.【邊蚳ブラむアン・J・ハド゜ン『図説 滝ず人間の歎史』鎌田浩毅蚳,        åŽŸæ›žæˆ¿ã€2013幎、17-47頁】

2     ä»¥äž‹ã‚’参照。Eadweard Muybridge, Muybridge’s Complete Human and Animal Locomotion: All 781 Plates from the 1887 Animal Locomotion(3 Vols)(New York: Dover Publications, 1979).

3  ä»¥äž‹ã‚’参照。Sarah Greenough, "Fragments that Make a Whole Meaning in Photographic Sequences," Sara Greenough and Phillip Brookman(eds.), Robert Frank: Moving Out(Washington, D.C.:         
        National Gallery of Art, 1995), 100-101.【邊蚳サラ・グリヌノり「党䜓を構成する断片—写真のシヌク゚ンスの意味するもの」朚䞋哲倫蚳、ワシントン・ナショナル・ギャラリヌ線・発行『ロバヌ
      ト・フランクムヌノング・アりト』
1995幎、100-101頁。】

4  鎚長明「方䞈蚘」神田秀倫校泚・蚳、『新線日本叀兞文孊党集44 方䞈蚘 埒然草 正法県蔵随聞蚘』小孊通、1995幎、15頁。぀づく匕甚も同じ。

5  åŒæ›žã€24-25頁。

6  ã€Œãƒšãƒãƒã®é»™ç€ºéŒ²ã€ç¬¬8ç« 7-12節、『和英察照聖曞 和文新共同蚳・英文Today’s English Version』日本聖曞協䌚、2002幎。

7  John Burnet, Early Greek Philosophy, 4th Edition(London: Adam & Charles Black, 1958), 145-146.【邊蚳ゞョン・バヌネット『新装版 初期ギリシア哲孊』西川亮蚳、以文瀟、224頁】

8  åŒæ›žã€225頁から再匕甚。

9  ã€Œè€å­ã€å°å·ç’°æš¹èš³ã€å°å·ç’°æš¹è²¬ä»»ç·šé›†ã€Žè€å­ã€€è˜å­ã€äž­å€®å…¬è«–瀟、1978幎、76頁。

10 以䞋から再匕甚。Michael Fried, Courbet's Realism(Chicago and London: The University of Chicago Press, 1990), 210-212.
      ちなみにマむケル・フリヌドは、いささか性急か぀単玔にクヌルベの絵画ず象城ずの結び぀きに固執するホフマンの議論に異を唱え぀぀、クヌルベの描いた掞窟の連䜜「ルヌ川の源」など、倧き
      な「ブラむンド・スポット」が画面の倧きな郚分を占有するこずが、絵画から芋䞖物性を取り去り、画家
=鑑賞者が身䜓的に絵画ぞ没入させるために欠かせないず芋なしおいる。フリヌドによれば、
      そうした「可芖性の蝕
=遮蔜」を備えたクヌルベの絵画が、「画家=鑑賞者ず絵画ずの間における擬䌌=身䜓的な融合を達成するこずを目暙に据えた䌁図の所産、おそらく副産物ずしお䞻題化されお
      いる」ずいう。この「擬䌌
=身䜓的な融合」は、ブムンの「スコヌガ」連䜜だけでなく、過去の連䜜「Naksan」「On the Cloud」などにも該圓する。以䞋を参照。Ibid, 217-218, and Shino Kuraishi,
       "Snow, Sea, Light," in Boomoon, Naksan(Portland: Nazraeli Press, 2010), n.p.

11 デュシャンの《Etant donnés: 1 la chute d'eau / 2 le gaz d'éclairage》(1966幎、ミクストメディア、フィラデルフィア矎術通蔵)の基本事項に぀いおは、以䞋を参照。Arturo Schwarz, The Complete Works of Marcel Duchamp, Third Revised and Expanded Edition, Vol.2(New York: Delano Greenidge Editions, 1997), 865-866.

12  ã€Œãƒšãƒãƒã®é»™ç€ºéŒ²ã€ç¬¬8ç« 13節、『和英察照聖曞 和文新共同蚳・英文Today’s English Version』日本聖曞協䌚、2002幎。

13 シモヌヌ・ノェむナによる「だが、私の県からすれば、やさしさの䞭にしか偉倧さはない」ずいう蚀葉を匕いた埌、モヌリス・ブランショはこう曞いおいる。
      「私はむしろ蚀いたい
—やさしさによらずしおはいかなる極端もないず。やさしさの過剰による狂気、やさしい狂気。思考するこず、自らを消すこず—やさしさの灜厄」。以䞋を参照。
        Maurice Blanchot, The Writing of the Disaster, translated by Ann Smock(Lincoln and London: University of Nebraska Press, 1995), 6-7.【邊蚳モヌリス・ブランショ「回垰ず忘华の思考—le pas de
        désastre
」豊厎光䞀蚳、『ナリむカ』1985幎4月号、47頁】


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